とみだ再発見

三重県四日市市富田の非公式ブログ

歴史上のヒロイン『おこと』〜その1

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浪曲「血煙荒神山 ー蛤屋の喧嘩」

“慶応年間、伊勢の富田に「みすじ」という蛤一式の料理屋がありました。焼蛤、蛤の吸物、蛤なんて、大変うまかったそうで ーもっとも蛤ばかりがうまいのかっていうと、そうでもない、看板娘がいる、名前がお琴さん、年が十九、花なら蕾、番茶も出花・・・・・・”

浪曲広沢虎造に語られる「血煙荒神山 ー蛤屋の喧嘩」は、慶応二年(1866)四月八日花祭りの日の荒神山(正しくは、高神山)の大喧嘩に材を採ったもので、戦前戦後の庶民間に広く知られた。浪曲のヒロインお琴の嬌名(きょうめい)は、脚色家小菅一夫をして、幕末から明治にかけて繁盛した富田の居酒屋「おことの店」の加藤ことをモデルとし、富田小町として全国にその名を売ったのである。・・・・・・

上記は堀文治氏の『「荒神山の喧嘩」の真因』からの抜粋。

郷土史書「富田をさぐる」によると、この喧嘩の発端となったのは、本当は西町の旅籠中島屋の客引き女「お照」だったとのことです。

◯「おことの店」

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実在の人物「おことさん」は近鉄富田駅前通り(写真奥が近鉄富田駅)と旧東海道の交差点、現在のマルショウ化粧店(写真左の白い建物)の場所で、嘉永年中(1848〜1853、明治維新の15年〜20年前)の頃から居酒屋を営みました。

当時の駅前通り(中央通り)には豊富川が流れており、両側の土手に道がついているだけの“裏通り”でした。旧東海道には土橋(豊永橋)がかかっており、この橋詰めの角に店の入り口があった(※昭和22年まで当時の建物が残っていた)そうです。郷土史書「富田をさぐる」(以下引用は全てこの著書から)によると

幕末の頃から、この橋のたもとに居酒屋があった。入口から土間になっていて床机(しょうぎ)が並べられ、奥にはいくつかの小座敷もあった。

旅人や土地の者で賑わい繁盛していたようである。この店の看板で「おこと」という若い娘がいた。愛想がよく客扱いが上手、それに何よりも美人なのが評判となり、売っている酒より、この「おこと」を目当てに通う客の方が多かったといわれている。

 「おことの店」は幕末から明治中期にかけて、この場所にありました。

◯「おこと」にまつわるエピソード

浪曲の“ヒロイン”のモデルとしてとりあげられるほど有名だった「おことさん」はどんな人だったのでしょうか。

生い立ちは分からないが、聞くところによると、顔はどちらかといえば丸顔で肌色白く、評判の美貌に加えて才知に富み、生来の義侠心強く〔侠客肌の女〕としてその名を知られていたようである。

街道筋で、地元のものだけでなく、初対面の旅人が出入りする居酒屋を仕切るのだから、大人しくてはやっていけません。きっと客のもてなしも上手い人だったのでしょう。“才知に富み”のエピソードは「富田をさぐる」に3つほど紹介されています。

〜若い頃所用で江戸へ行った。途中箱根の関所を越えるとき、女の一人旅は役人がうるさいので、考えたすえ、三島宿(静岡県)の女中のような格好をして岡持(おかもち)を下げ難なく関所を通り抜けた。

〜ある日「おことの店」に泥棒が入った。普通の女なら腰を抜かすところを泥棒の目前で奥に向かって「松一・竹二・梅三」といった調子で、いい加減な名前を七、八人呼び、「泥棒やー」とどなった。その後、奥から物音に気付いて出てきた家人は只の一人だけであった。

〜「おこと」は居酒屋のかたわら酒の仲買人もしていた。ある日のこと、酒税を取る役人が「おことの店」に取締りにきて闇酒を発見した。役人が「この酒はどこにあった」と詰め寄ると「おこと」は「これは水だ」と言って譲らなかった。しばらく押し問答をしていたが、怒った「おこと」は、突然側(そば)にあった薪(まき)割りで、自分の背よりも高い酒樽を割ってしまった。中身はもちろん酒である。酒は家中に芳香を放ってトウトウと流れ出した。ビックリした役人は「早く水を止めよ、早く水を止めよ」と叫んでしまったのである。

 「おことさん」の話は昨年、地元のケーブルテレビCTYで取り上げられ、アニメーションで紹介されました。次回に続きます。

 

参考・出典:

・「発掘街道の文学 四日市・楠編」志水雅明 伊勢新聞社発行

・「富田をさぐる」生川益也